2016年09月30日

佐川急便の偽装に思う

佐川急便の運転手が駐車違反の偽装を他人に頼んだという。記事が少し前に報道された。
大企業がやってはならぬ行為であることは明らかに間違いないのだが、
考えてみると運転者にとって気の毒なところもある。
もとはといえば、この国の道路行政に無理があるのだ。
貨物の積み下ろし帯を道路に作らず、いや作れなかったのかもしれないが、
道交法で5分以内は駐車ではないと強引に定義し、
長い間、貨物自動車に関しては駐車違反をお目こぼししてきた。
それが、突然、取り締まるぞ!となって、トラック業界は大慌てだったろう。
一時は二人乗車で対応していたが、とてもコストが合わない。
そうなれば、捕まるリスクを犯して一人乗務をやれとなるのは、仕方ない経営者の判断。
良くないことだが、やむをえないところもある。
つまり、道路交通システムに欠陥があるのを、個人の責任に押しつけているのである。
国の方に問題があるのに、個人のリスクとする。
偽装はけしからんが、国の方になんの反省も見えないのは、許せない。






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2016年09月12日

自己責任の重要性

TVで養老孟司東大名誉教授の対話を聞く機会があった。
氏はアメリカの3歳の子供に親が木製のクルマのおもちゃを与えるシーンを見て驚いたという。この親は3歳の子供に色は自分で選びなさいと言ったそうだ。
氏はさすがだと言っていました。
日本の大学で、学生に一生の間に自分で決めたいことを書きなさいという問題を出すと、結婚相手を決めるとか、せいぜい3行ぐらいしか書いてこない。ところがアメリカの学生になると、紙の裏まで一杯書いて紙が足りないという程だと。こういうところが違うんですね。と話していた。
つまり、彼らは自己の責任ということを幼少の頃から教え込まれている。だから、危険な崖の端のところでも柵が無いとこすらある。落っこちるのは自己の責任なのだ。
一方、我が国の人々はそうではない。柵が無くて転落しようものなら、管理者の責任になって大騒ぎとなる。
この辺りのメンタリティの差が、道路交通にも現れているように思う。
彼らはクルマを運転することは自分が全ての責任を負うということを理解しているのだと思う。だから運転するに当たって運転技量がどうのこうのというよりは、事故を起こさないように自己を律する事の方が大事だと理解しているのであろう。また、交通災害に遭うのが嫌なら、高い金を出して頑丈なクルマに乗れば良いとも考えているかも知れない。その裏返しで、ニューヨークのようにDon'tWalkと信号にでていても、クルマがいなければ自己の責任で平気で渡ってしまう。そこも自己責任の特徴である。アメリカでは赤信号でも常時右折可という交差点が多いようだ。これも、自己の責任で曲がって良いという自由主義の表れであろう。
我が国の人たちは、行政の権威を一番に考える。運転をするためには行政から運転技量ばかり厳しく審査される。その結果、運転免許さえもらってしまえば国に認められたのだから何をやっても良いと錯覚してしまう。あとは、事故を起こしても行政が守ってくれると錯覚するのだ。
ところがそれなのにクルマ社会の前提は明らかにアメリカと同じ自己責任なのである。自己責任ということが広まっていなかった高度成長期は歩行者の被害がべらぼうに多かった。
その結果、行政は歩行者に自己責任ということをしつこく教え込んだ。一方ドライバーには自己責任ということを殆ど教えていない。その結果、歩行者側の責任の災害はどんどん減っていった。だが、ドライバー責任の災害は依然として減っていない。
今こそ、クルマを運転することは重い自己責任を負うのだということを教えるべきであろう。
運転することは楽しいことばかりでは無い。責任ということを決して忘れてはならない。


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2016年09月08日

郊外と都市の道路交通の違い(7)

無秩序にクルマを売らせてしまった結果、都市部でもマイカーを持つ家庭だらけになってしまった。そこにはメーカーの巧妙な家庭対家庭の対抗意識をあおり立てる作戦があった。では、マイカーを持った都市住民は本当に便利になったのであろうか。前回述べたように、その結果として都市の道路の渋滞と、駐車スペースの不足は深刻になってしまった。道路の渋滞は到達時間の見通しを狂わせ、いつ目的地に着けるか分からなくなり。やっと着いた目的地には当然駐車スペースは無い。駐車場探しで小一時間かかることも珍しくなく、約束時間に間に合わないと、取締まられるのを心配しながら路上の違法駐車が蔓延した。こんな事でマイカーを高い金を出して買った人たちに何かの意味はあったのであろうか。
実際、都市の会社員はマイカーでは出勤出来ないことは前回書いたとおりである。高い購入代金の見返りは年何回かの日曜の中長距離ドライブしかないのである。都市内で乗りまわすとしても高々20q程度しか走らない。全くもったいない話である。また当時は田舎へ帰るという習慣が残っていて、盆暮の短期間に家族全員が一台のクルマで田舎に帰るということもよく見られた。しかし、たかがそれだけのことのために大金をはたいて都市の庶民はマイカーを買わされたのである。極めて、コストパフォーマンスが悪いと言わねばならないであろう。この状況は今でも余り変わっていないのだ。
都市生活者にとって、日常クルマを利用できる機会は限られている。クルマを所有する経済的な価値は殆どないと言っていい。クルマの所有で家計に及ぼす支出の影響はバカにならないものである。
別の観点からいえば、都市のクルマ所有は格差を強調することになった。隣の家が自分の家より高級車を持っているかが家庭間の競争の対象となってしまった。また、クルマを平日乗り回せるのは学生である息子達だった。当時の親の経済的な余力があるか、金持ちであるかどうかが、自分で稼がない息子達のクルマの格で比較された。高級車に乗る学生は親の経済力を自慢した。今は、クルマに興味のない学生も多くなったと聞くのだが。
このような状況で、行政はせっせと道路を建設した。クルマが無制限に売られているのだから、道路が不足するのは当然である。それが錦の御旗となった。大金が投じられた。都市は破壊されていった。
道路が渋滞するので、右折禁止が至る所の交差点で設定された。その結果、左回りで迂回するために狭い生活道路にクルマが溢れる結果となった。
都市の場合、郊外と比べて人口密度が高い。従って道路に他のクルマ、人のいる確率は遙かに高いのである。
そこが、郊外の交通との違いである。家と家が軒を連ねていて庭などないところも多い。そうなると子供も道路で遊ぶこととなる。歩行者も沢山いる。クルマも多いとなれば、交通災害が多発するのは当然である。
クルマは最初に書いたように郊外向きの乗物なのだ。郊外向きの乗物を都市部で郊外と同じように走らせたい。どだい、その考えが無理なのである。信号は多い、歩行者も横断歩行者も多い、クルマも多く先が詰まっていることも多い。駐車違反も至る所に見られ、それが交通渋滞を引き起こす。
都市にクルマは必要ない。全くそのことを考えないで行政は道路だけを作り続けてきている。
最早遅すぎるかも知れないが、クルマ所有と運転は個人の自由という考え方は都市では考え直す必要があろう。都市からクルマが何割か減る正月の爽やかなこと静かなこと、もう一度そのことを考えるべきだと思う。

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2016年09月07日

郊外と都市の道路交通の違い(6)

郊外のクルマに対する依存はやむをえないモノがあると感じる反面、そのドライバーが都市にそのままクルマを乗り入れると都市交通問題を悪化させることは、前回述べたとおりである。つまり分かりやすいたとえで言えば靴は履き替えないといけないということ。靴を履いて歩いてきてそのまま畳敷きの家屋の部屋に土足で入るという感じだろうか。それが出来ないのがクルマユーザーなのである。自分の乗ってきたクルマを目的地に横付けしたい気持ちは分かるが、それが都市の交通事情を悪化させているのだ。ここの所に考えるヒントが隠されている気がしてならない。
一方、都市生活者にとってクルマは本当に必要なのであろうか。確かに、緊急自動車、介護施設のクルマ等はその必要性を否定しない。問題にしているのは各家庭のマイカーである。昭和40年代の初頭、クルマメーカーが猛烈にマイカーを宣伝し売り込んだ。そこには何の規制も自粛もなく、売りたいだけ売りまくるという姿勢だった。その頃の道路交通インフラは歩行者を基準としたものであり、道路は狭く、駐車場は未完備、個人宅の車庫さえ未完備であった。それなのにクルマだけは売りまくったのである。
当然軋みはあちらこちらに出た。道路は大渋滞。駐車違反は至る所。でも行政はマイカー総量の規制といった手段には出なかった。唯々クルマの増加に合わせてインフラの増強に努めたのである。市電を廃止し、道路を新設し、道路を拡幅し、駐車場法を作ってビルに駐車スペースを増やした。そのために、各都市は昔の人中心の姿を失っていった。そこには利権に結びついた建設国家というこの国の特徴があり、外国のようにソフトで解決しようという考えはなかった。
都市生活者のマイカーが全部動き出したらどうなるか、東日本大震災でその一部が垣間見えた。都市の道路はクルマで埋め尽くされ全く用を成さなくなってしまったのである。そこまで行かなくてもいい、東京都環状8号線などの幹線道路では毎朝深刻な渋滞が発生して無駄なエネルギーを消費している。それはそうである、米国の都市では片側6車線などという巨大な道路を作っても渋滞が起きるのである。それが片側2車線でこの国では一級の幹線道路なのである。
こうなってしまった背景としてのクルマメーカーの規制なき販売競争については、強い疑問を呈せざるを得ない。また、それを前提としてインフラ建設に邁進してきた行政にも同様の疑問を呈したい。

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2016年09月04日

郊外と都市の道路交通の違い(5)

今まで述べてきたように、郊外と都市ではクルマに対する考え方がだいぶ違っている。
郊外では自家用車は重要な輸送機器である。現代のように分刻みの細切れの時間感覚に慣れてしまっていると、とても30分などと言う時間は待てない。そして30分も歩いて通勤通学などということも耐えられなくなっている。おおらかだった過去には最早戻れないのである。駅で1時間に1本などと言う列車を待てないのである。それで地方鉄道は生き残っていけなくなってきている。現代人は自分の行動を交通機関の制約に合わせることが出来なくなっているのだ。この傾向はどうやったって後戻りできないであろう。
仕方のないクルマ依存。ただそこには前提がある。
道路に他車が殆どいない、駐車スペースがふんだんにある。クルマで走っても歩行者がいないというのがその前提である。
一般に郊外の環境ならばそれに近いところも多いであろう。
ブログ子が米国の田園地帯で感じたことがそれであった。歩行者が居ない、横断歩道もない、駐車場は大きい、そんな道路環境だった。
であれば、クルマ社会もやむをえないであろう。(高齢者ドライバー問題はここでは取り上げない。)
ただ、我が国では歩行者が道路を共用するのが歴史的な経緯であり、また国土の狭さからそうせざるを得ない側面も在る。そうなると、常に歩行者との衝突・接触事故を意識せざるを得ない。
しかしその対策は。今のところ未完成と言わざるを得ないと思う。横断歩道橋のように歩行者を苛めるような施策は以ての外である。
ただ、その対策がないままにクルマ事故ばかり増えてきたことを何も感じないとしたらなおさら問題である。
その、郊外のドライバーも都市に入っていくと、その利便性が一変する。
クルマの本質的な欠陥、場所を取るという特性がもろに牙を剥くのである。
道路は渋滞し、駐車場は満杯、これでは、30分を惜しんでクルマで移動してきたのに何の意味もなくなってしまう。渋滞で予定時刻に遅刻するから、30分早く家を出る。何のためにと馬鹿馬鹿しくなる。郊外のドライバーはこんな矛盾した環境の中でクルマを保有し運転しているのである。
といって、地方都市に通わなくてはならない郊外の住民も多いと思う。
そこで、パーク・アンド・ライドなどと言うやり方で鉄道と共存を図っている郊外もある。
ブログ子はこういう短距離のクルマの使い方が本来の使い方だと思っている。クルマで何百キロも移動するのは安全性から言ってやめた方が良い。
ただ、駅の回りは歴史的に言っても歩行者が多いところである。列車時間に間に合わないと焦って人と接触する心配は依然として残る。
とはいえ、郊外のクルマ利用は解決策があるような気がしてならない。道の駅のように歩行者が行けないようなところにショッピングセンターを作るのでなく、鉄道駅を中心としたまちづくりがもう一度考えられないのであろうか。全国から鉄道網が消える前に考えておきたい課題である。


posted by トロント at 16:43| Comment(1) | TrackBack(0) | クルマシステム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする