2014年06月02日

クルマは原始的な道具と思いませんか−5

前回まで、クルマと鉄道の保安に対する考え方の差を述べてきた。
レイルという進路が決められている鉄道には何重もの保安装置が作られているのに、進路でさえ運転者が間断なく認識、判断、操作を続けなければ維持することもできないクルマの方に保安装置が全く組み込まれてこなかったということ。そんな理不尽さがお分かりになったと思う。そして、さらにクルマの方は運転者の意思次第でどんな運転でもできてしまうことを魅力としてきた背景がある。「時間に間に合わないからスピード違反しよう。」といった行動がいとも簡単にできてしまうのである。アクセルをちょっと深く踏み込めば歩行者の多い道路を猛スピードで走り抜けられのである。赤信号を良く無視する。そういうことをしておきながら、事故を起こさなかったから自分は運転が上手いと自慢する。そこにクルマ脳に冒された本質的な考えの誤りがある。人は必ず何時かは誤りを起こすものである。それを許してしまうクルマという道具はつくづく原始的な道具だと思うのである。保安装置の取り付けは絶対に必要である。

2014年06月01日

クルマは原始的な道具と思いませんか−4

クルマの運転は、認識、判断、操作が基本だと習ったが、それを超える重要な心的な要素がある。それは何かをしようとする意思である。クルマの基本機能、走る、止まる、曲がる、すべてこの意思がなければ成り立たない。クルマはじっと停まっているだけである。クルマが動き出すにも止まるにも曲がるにも、その意思が運転者になければならない。ところがこの意思が何の制限もなく果たせるところにクルマが原始的な道具であるという理由がある。一般に何か行為をするときには、必ず制約とか制限があるものだが、それらを守ることは全て運転者のモラルと自制心にまかされているのである。悪い言い方をすれば、自分に危害が及ばなければ何をやっても構わない、何でもできるのである。その一例として速度の問題を取り上げてみたい。
例えば、このスピードでこのカーブを進路逸脱せず、転倒せずに曲がれるかどうかの判断は運転者にまかされている。クルマメーカーは高速で安全にカーブが曲がれるということを競って自慢しており、クルマは自分の選んだ速度で走ればいい、制限速度を守らなくとも転倒はしないという神話が出来上がっている。運転者はそれを信じて制限速度を守らない。これが鉄道だったらどうなるか、あの福知山線の事故では制限速度をオーバーしてカーブに突っ込んだために脱線転覆し大惨事を起こしたのである。制限速度を守らないということは事故に直結するのである。
そのために、以前より新幹線、山手線の車両などにはATCという装置が取り付けられており、制限速度をオーバーするとブレーキが自動で掛かるようになっている。列車の運転というものは斯くもストイックで極めて熟練を必要とするものである。その厳しい制約を守りながら制限速度ギリギリで運転できる卓越した運転手の技量により新幹線はあの正確な運行時間を維持しているのである。大問題となった福知山線でもあの事故の後ATCに準ずるATS-Pという装置が取り付けられた。
翻ってクルマの方はどうなっているだろうか。驚くなかれ、全くそういった装置は取り付けられていない。運転者に全ておまかせなのである。例えカーブを曲がれなくて転倒してもメーカーが責任を取ってくれるわけではない。速度を制限する装置をクルマに装備させるべきである。まして、歩行者自転車混在の道路であれば安全に止まれる速度に自動的に速度制限させる事は当然である。鉄道と比較してあまりにクルマが原始的な構造であることにことに呆れるほかはない。行政はITSの研究成果を生かし早急に装置の義務づけを図るべきだと思う。
この稿続きます。

2014年05月31日

クルマは原始的な道具と思いませんか−3

進路が決められている鉄道では、赤信号は絶対に守らねばならないものである。複線区間では赤信号の先には別の列車がいることを意味し、無視してそのまま進行すれば確実に追突事故に至る。また、単線区間の場合、赤信号を無視して進行すれば、正面衝突という大惨事を引き起こす可能性が高い。このように絶対に信号の見落としがあってはならない鉄道では、昔からいろいろな対策が取られてきた。ATSといわれる装置がその代表である。この装置は赤信号を無視して進行しようとすると非常ブレーキがかかるというものであり、見落とし、誤認と誤操作を防ぐためのものである。そして全ての列車に備えられている。つまり人というものは間違いを起こすものだということが長い歴史の中で常識となっているのである。
翻ってクルマではどうであろうか。今まで信号の見落としに対しては全く対策が取られてこなかった。全て人の認識、判断、操作に押しつけて、ドライバーの責任としてきた。まさにクルマは原始的な道具そのものである。
ところで、最近流行の衝突回避装置であるが、この装置は全く目的が違う。システムとして事故を防ごうというものではなく、最後の最後の局面で事故を回避するか、または被害を軽減するものである。だから青信号を前提として速度を落とさず交差点に進入してくるクルマ、人に対してはこの装置はほぼ無力と言ってよいだろう。だからシステムとして、赤信号の見落としを防がなければならないのである。
この信号見落とし対策は、ITSの研究の中で進められている。高速道路で普及しているETCの応用で、各交差点に接近したクルマに赤信号を通信し、車内で警告するのである。そしてドライバーがブレーキを踏まなかった場合は自動でブレーキを掛けるところまで行けば万全である。この技術は、交差点での一時停止警告にも容易に応用できる。
このシステムの実現は間近と思うが、行政に今ひとつ緊迫感が見られない。悲惨な事故を防ぐために、早急にシステム装置の取り付けを義務化すべきと思う。
この稿続きます。

2014年05月30日

クルマは原始的な道具と思いませんか−2

身近な鉄道を例にとって話を進めたい。鉄道の場合、進路を逸脱することはその構造から言って原理的に考えにくい。ところがクルマの場合は直進することすら訓練が要る。教習所の実技教習で最初に直進の仕方から教わるのがその良い証拠である。またそれは運転者の認識、判断、操作に強く依存している。実際運転してみると分かるが、目を離す、またはハンドルを離すとすぐ進路を逸脱しそうになる。さらに鉄道の場合、踏切を除き人が線路内に立ち入ることは禁止されているが、我が国の道路は基本的に人との混在が前提になっており、進路逸脱は重大事故につながる。この事実だけでもクルマの運転者の意識が正常な状態にない場合は大変な危険が伴う事は明白である。正常でない場合の例としては、意識を失っている、居眠りをしている、酔っ払っているなどが考えられる。それなのにクルマにはそれらの事象に対する安全装置すら全く備わっていない。鉄道について言えば地下鉄では古くからデッドマン装置という運転中ハンドルから手を離すとブレーキの掛かる装置や、旧国鉄ではEB装置と呼ばれる、1分間ごとにある決められた操作をしないと自動でブレーキのかかる装置が取り付けられ、今に至っている。勿論これだけで全ての安全が保証されるわけではないが、進路逸脱の考えられない鉄道よりずっと進路維持が難しいはずのクルマに全くこのような装置の取り付け義務がないことに疑問を呈さざるを得ない。関越自動車道の悲惨なバスの事故も居眠り運転が原因だった。鉄道と違って運転者が正常かどうかの判断を装置にさせることに技術的なハードルは高いが、技術はどんどん進んでおり、行政が強い意志を持って義務化するという姿勢を見せて欲しい。
この稿続きます。

2014年05月29日

クルマは原始的な道具と思いませんか

クルマの三要素とは@走るA止まるB曲がるだそうである。ところがクルマはその三要素を全て運転する人間に任せきっている。例えば@の走る。加速するのも、速度を維持するのも、速度を下げることも人のによって決められることだし、そのきっかけを決めるのも全て人の五感と判断に頼っている。そこが原始的であるとする由縁である。Aの止まるだって、ブレーキを踏むのも人の五感と判断に頼っているし、停める場所を選ぶのも人の判断である。Bの曲がるに関しては、これこそが鉄道にないクルマだけに与えられた特権と言うが、逆に言えば直進する進路を維持するのも間断ない人間の周囲認識と判断と操作に頼っているわけで、考えてみれば極めて煩わしいもので不安なものである。まして曲がる場所、きっかけ、曲がる曲率を判断してハンドル操作するのも同じように人の五感と判断に頼っている、となればこれほど原始的なものはない。この面について言えば自転車と機能は全く変わりはない。ところがクルマには人の普通の生活には不要と思われるほどの途方もないパワーと重量が与えられた。メーカーはクルマの原始的な本質には目をつぶって、性能向上競争に明け暮れしてきた。例えば、たった人一人を運送するために馬200頭分のパワーと180キロ/hに達する俊足を与えたのである。そしてメーカーと行政はこの三要素の利用を全て運転者の責任として、その誤判断、誤操作は全て運転者が責めを負う、という極めて都合のよいロジックを組み立てて、クルマの普及に邁進してきた。そこが鉄道、航空機、船舶などと全く異なるところである。
次回はこのことについて少し詳しく言及しようと思う。