2017年02月04日

交通信号は信号ではない

皆さんは、道路にある交通信号と、鉄道の信号とが同じだと思われているのではないだろうか。
実は、全く異なるものなのである。
直ぐ分かることだが、交通信号は、青→黄→赤の順に色が変わる。
一方、鉄道信号の方は、赤→黄→青の順に色が変わるのである。
つまり、鉄道信号の方は前方に列車がいれば赤、安全な位置まで離れていれば黄、全く見えなければ青なのである。
そして前方の列車の存在については、電気的に確認が取られている。
一方、道路の方は、一般にタイマーで時間が来れば勝手に色が変わる。
前方にクルマがいて追突するからというわけではない。そこには全く安全機構は組み込まれていないのだ。
このことは交通信号が保安のためにあるのではなく、道交法に書かれているように交通整理のためにあるのだという事を意味している。
従って、交通信号は赤だからといって必ずしも衝突の危険がある訳ではないのだ。
だから、信号無視が頻発する。無視しても衝突しないと誰もが思っている。
もう一度言おう。交通信号は単に交通整理しているだけなのだ。
だから、運転者、歩行者の法を守る精神だけが頼りなのである。極めて不完全なモノだ。
それを忘れないで欲しい。
一昨日も、横断歩道を横断中の学童が轢かれた。
信号がどうだったかということが争われると思うが、あくまでも交通信号は交通整理のためにあるということを忘れないで欲しい。
面白い事実がある。米国では交通信号のことを、Traffic light と言う。
その意味は交通流を管理するためとある。
鉄道の信号はSignalである。
こちらの意味は、運転手に(安心して)前進して良いかどうかを表示するとある。
英語表記の方がその性格を良く表していると思いませんか。










posted by トロント at 11:18| Comment(5) | TrackBack(0) | クルマ社会の常識を疑おう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月04日

防犯と交通安全

最近面白いことに気付いた。
町会では、地元警察からいろいろとお願いが来る。
多くは防犯に関することである。パトロール隊を結成して見回って欲しいとか、犬の散歩のついでにパトロールして欲しいとか言う類いである。
防犯の担当は、地域住民と仲良くしたいという姿勢がよく見える。そして防犯には住民の目が大切だと言う。
町会の防犯部長には始終警察から情報の提供があり、空き巣、変質者、ひったくりに注意して欲しいと言ってくる。
そして、見かけたことのない人がうろついていた、変質者に触られた、息子を語る変な電話が掛かってきたなどと言うことがあったら、すぐ警察に電話して欲しいと、機会がある毎に訴えている。防犯の情報を喜んで受け取るという姿勢がハッキリとみえる。そして、母さん助けて詐欺の犯人を住民と協力して逮捕したりもする。勿論、年末の住民夜間パトロールにも同行する。
つまり、住民の協力なしには防犯は機能しないという考えから、住民の理解と協力を得たいと努力をしているのである。
また、住民も防犯に関する限り警察に対しては町のお巡りさんとして一様に好感を抱いている。
ところがである。
同じ警察でも交通安全に関してはそういうことは一切ない。
例えば、何時も通るあのクルマはスピード違反するから取り締まって欲しいとか、ここでは危険な駐車違反がひどいから取り締まって欲しいとか、そういう情報を欲しがっているということを全く聞いたことがない。
言ってみれば、交通警察に関しては住民に協力して欲しいという姿勢が全く見えないということである。
お座なりに年2回の交通安全運動は行われるが、ただそれだけである。常日頃から、交通安全のために住民の協力を得ようと働きかけてこないのである。
防犯警察の方はしょっちゅう住民とコンタクトしようとするが、交通警察は自分たちの方からコンタクトしてくることは全くない。
その上、いつの間にか知らないうちに信号が付いたり、妙な交通規制があったり、でも、本当に欲しいところに信号は付かないし、交通規制もやって欲しいという住民の意思は通じない。
その差は大きい。住民も交通警察に関しては大概親近感がないと同時に逆に反感を持っている者までいる。交通警察はただ取り締まるためにだけあると理解している住民は多いのではないか。
ここがこの国のクルマシステムの不幸なところである。何故そうなってしまったのであろうか。
ブログ子はもとは道交法にあるとみる。
道交法は運転者に対する法の執行は警察だけにあると規定している。そして規制等は行政から独立した都道府県公安委員会が独占的にその権限を握っているのである。
つまり、住民の協力という考えは端からない。良い証拠に、住民は交通違反者に対し何の法の執行の権限も与えられていないのである。駐車違反だって住民が運転者に文句を言っても聞き流されるだけである。警察のいうこと意外聞くことはないと道交法は規定しているのである。
この警察のスタンスの差はなんとかならぬモノであろうか。
同じ警察でありながら、住民の力を貰いたい防犯警察と自分たちがやることに口を出すなという交通警察。こういうスタンスだから生活道路での歩行者事故が減るわけがない。住民の目を大切にし、もっと住民とコンタクトして住民の協力を得ることが必要ではないかと思うのである。






posted by トロント at 15:10| Comment(3) | TrackBack(0) | クルマ社会の常識を疑おう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月04日

自分の満足、他人の迷惑

何時も気になっていることですが、クルマ社会の常識は標題の一言に尽きます。
自が気に入ったクルマやオートバイを買って満足に浸りきって気分良く乗り回す。それは気分良いでしょう。でも他人にとっては迷惑なことも多々あるのです。
住宅街の狭い道に堂々と乗り入れてくる。歩行者は道の端に身をすくめてやり過ごす。
渋滞でも周囲の住宅を気にせず延々と排気ガスをまき散らす。
駐車違反なのに平気で停める。歩行者が車道にはみ出さねば歩けない。
暑いからと停めてあるクルマの中でエアコンを掛けっぱなしで涼んでいる。
大音響のカーオーディオで自分だけ楽しんでいるが周囲の歩行者には良い迷惑。
深夜帰宅してシャッターを開け閉めする。眠れません。
迷惑の最たるものが、オートバイの排気音。なんであんなに大きな音を立てねばならないのでしょうか。たぶん性能の悪い分音で主張しているのでしょう。
クルマ社会は行きすぎた自由経済の象徴です。弱肉強食。金のある人は何をしても良いという常識がまかり通っています。
クルマを運転することは権利ではありません。多くの他人が譲ってくれているから、他人が税金を払って道路を作ってくれているから運転出来るのです。だから、それを理解して、お互いが迷惑しないようにするべきです。
運転するときは他人に迷惑が掛かっていると考えて、遠慮しながら運転するべきです。申し訳ないと思って運転して下さい。
残念ながら、道路交通法には、どこにもそういう言葉は書かれていません。
そこが問題です。



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2015年08月30日

日米生活道路の比較2

前回に続いて、道路の話題です。
都内では高級住宅地の成城と米国加州Pasadenaの比較です。
見てのおとり道路の幅が全く違います。日本の場合右手のお屋敷には立派な車庫がありますが、道路は狭い。
米国の方は道路がゆったりしていて、駐車していても全く問題ない。
ここなんです。クルマ社会を前提に拡がってきた米国と、歩行を前提として拡がった我が国の差です。
お屋敷も我が国と違って米国の場合は隣との間がゆったりしています。来客のクルマも屋敷内に停められそうです。
でもこんなところに住んだらクルマなしには生活できないでしょう。
クルマ社会を是とするか非とするか、日常の生活から考えなければなりません。
我が国は米国のようなクルマ社会を理想として実現しようと邁進してきました。しかし、この二枚の写真を見て分かるように本当に米国のようになれると思ったら大間違いです。

pasadena1.jpg成城.jpg
posted by トロント at 11:44| Comment(1) | TrackBack(0) | クルマ社会の常識を疑おう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日米生活道路の比較

我が国にクルマ社会が向いていないということを画像で示したいと思います。
一つは米国カリフォルニア州パサディナの道路です。もう一つは我が国の有名な田園調布の道路です。
どちらも高級住宅地の生活道路です。
見て分かるとおり、米国の交差点は左右の見通しが良く効きます。一方我が国の交差点は見通しが効きません。
その理由は、我が国の場合は塀が道路の端まで作られているため、見通しが効かないわけです。
飜って米国の場合はまず、住宅がセットバックして建てられているし、塀そのものがない上、あっても生垣であり、それも低いものです。従って交差する道路からの他車進入がよく見えるのです。
このように、米国はクルマ社会に向いた住宅の建て方をしています。一方我が国ではクルマ社会に全く馴染まない住宅の建て方をしているわけです。
このことから、我が国では出会い頭の事故が多いのがよく分かります。
この田園調布は我が国では特例の地域と言って良いでしょう。他の住宅地では歩道すらなく、道路ギリギリに住宅が建てられています。
この家の建て方を変えることは我が国の歴史と土地代の高さから言って不可能でしょう。
こういうことが分かっていてクルマ社会を推進した人たちはどういう人たちだったのでしょうか。
元々無理なことをやってしまったのです。



pasadena.jpg田園調布.jpg
posted by トロント at 00:09| Comment(0) | TrackBack(0) | クルマ社会の常識を疑おう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする