2018年06月27日

あおり運転が起こる原因はこれだ!

あおり運転はつい昨日も暴力事件に発展したと報道されている。
なぜ、こういった事件が頻繁に起きるのであろうか。
これに関して交通関係の専門家たちは、大きく取り上げようとしていないように思う。
でも、本当にそれで良いのか。
アメリカでもクルマ運転時に凶暴になる現象は古くから知られていた。
いわゆる、ロードレージといわれる現象である。
ブログ子も運転していると突然イライラして、腹が立つことを何度となく経験した。
この心理になると、誰しも、あおり、無理な追い越しなど、無性に荒っぽいことをしたくなるものだ。
前述の米国のように、こういった現象は国、民族を問わず発生していると思われる。
では、何故そういう現象が起きるのであろうか。
交通心理学の本を読んでみても答はない、と言うより誰もこの問題を取り上げていないように思える。
しかし、ブログ子はこの現象が起きるのは、クルマの構造に原因が潜んでいると昔から感じている。
それは、クルマでの移動は狭く閉鎖された空間での移動であるということである。
このことを皆、意外に認識していない。
クルマは幾らゆったりとした高級車であっても、頭上の空間には限界があり、立ち上がることもできない。
さらに、足も前に伸ばすしか、持っていき場が無い。足は、万一の場合に備え突っ張る役目も担っているのだ。
左右もシートベルトに縛り付けられて身動きならない。
こういう姿勢を長い間とらされるのは拷問に近い。
足はだるくなるし、身体を伸ばしたくなるが、動いているからそれは叶わない。
場合によっては、この姿勢維持が何時間にも及ぶのだ。
他の交通機関を考えてみると良い。
一番、狭いのが旅客機であろうが、これだって座席から立とうとすれば立てる。背が伸ばせるのである。
それに、トイレに行くには通路を歩いて行ける。
それでも、シートベルト着用が強制されると、その拘束にうんざりしてくるのだ。
クルマの場合はその比ではない。
列車の場合はもっとゆったりしている。座席からの移動は自由で、通路に出て歩ける。
天井は充分な高さがある。列車空間には余裕があるのだ。
それに加えて、クルマ自体、道路という逃げられない拘束下にある。
この拘束条件は結構重い。
渋滞、どうにもならない。高速道路などでは逃げ道もない。じっと我慢あるのみである。
イライラが溜まらぬ訳はない。
ロードレージはこういう原因ではないかとずっと考えてきている。
観光バス、高速バスなんかは頭上の空間が広いので、乗客がイライラする事も少ない。
ロードレージはクルマという構造の持つ宿命的な欠陥なのだと思う。
では、どうすれば良いか。
簡単な答はないのだ。





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2017年06月21日

大通りに面している土地の価値

土地の価値はクルマ通行の多い道路に面していると高くなるらしい。
事実、東京では環八のような幹線道路の両側にびっしりとビル、商店が連なっている。
ブログ子はいつもその光景が不思議でならない。
何で、大通り沿いに商店が集まるのか。
土地が高くてもそれを買うのはそこで商売をしたい人である。
或いは、企業はオフィスを大通りに面したところに持ちたいのかも知れない。(マンションが建つのは別の理由)
でも一寸考えてみよう。
果たして大通りに面していれば事業に有利なのであろうか。
例えば、小売商店が欲しいのはお客の筈だ。
そのためには歩行者が多いことが最重要なポイントである。
その意味では、大通りは歩道が広く、人通りが多いという利点があるかも知れない。
でも、このことは必要十分条件ではない。
歩道が広いことと歩行者が多いことは十分条件にはならないのだ。
歩道は必要条件だが、歩行者の多寡には関係ない。
歩行者が多いのは、歩行者が集まってくる何らかの理由がある街である。
単に大通りの歩道に面しているからと言って客が増えるわけではない。
最近、大通りに面している商店にシャッターが目立つ。
一方、クルマの通行が多いのは何も売上げに関係しない。
よく間違える考えだが、大通りに面しているとクルマで来る客が増えるという考えがある。
これは、正しいようで間違っている。
クルマで来て貰うためには、駐車場が必須である。
クルマユーザーは駐車場が遠いとそれを敬遠する傾向がある。
自分の商店に充分な駐車場があればクルマの客が増えるという考えが成り立つが、無い場合は成り立たない。
駐車場のための土地投資は小さな商店にとって相当の負担である。
一台に10uの土地を占められて、お客1人という事はザラにある。商店でその投資を堪えられるか。
大きなビルを建てている企業なら地下に駐車場を作れるであろうが、小さな商店にそれは無理な相談だ。
だから、大通りに立地すれば商売に有利というのは幻想なのだ。
ところで、この国では、道路に駐車帯設置を義務化していない。
駐車帯があれば、駐車場のない小さな商店でも道路にクルマを停めて客が来てくれるかも知れない。
でも、全国的にそのようにはなっていない。道路は通過することしか考慮していないのだ。
従って、小さな商店で買い物するには無理に道路に駐車するしかない。だから駐車違反が横行する。
大通りは一般に速度が高い。駐車は危険な行為なのだ。
ここまでの議論で分かるように、この国では大通りに面していると言うことが、最早商売に結びつかない。
大通りに面している土地が高いというのは商売から考えたらおかしなことである。
クルマ社会が発達する前の歩行者が中心だった時代の名残であろう。
大通りがあると言うことは歩行者が溢れていたという事だ。
クルマ社会の発達後の道路は全く役割が変わってしまった。
未だにそのことに気付かない人が多いのが不思議である。







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2017年02月04日

交通信号は信号ではない

皆さんは、道路にある交通信号と、鉄道の信号とが同じだと思われているのではないだろうか。
実は、全く異なるものなのである。
直ぐ分かることだが、交通信号は、青→黄→赤の順に色が変わる。
一方、鉄道信号の方は、赤→黄→青の順に色が変わるのである。
つまり、鉄道信号の方は前方に列車がいれば赤、安全な位置まで離れていれば黄、全く見えなければ青なのである。
そして前方の列車の存在については、電気的に確認が取られている。
一方、道路の方は、一般にタイマーで時間が来れば勝手に色が変わる。
前方にクルマがいて追突するからというわけではない。そこには全く安全機構は組み込まれていないのだ。
このことは交通信号が保安のためにあるのではなく、道交法に書かれているように交通整理のためにあるのだという事を意味している。
従って、交通信号は赤だからといって必ずしも衝突の危険がある訳ではないのだ。
だから、信号無視が頻発する。無視しても衝突しないと誰もが思っている。
もう一度言おう。交通信号は単に交通整理しているだけなのだ。
だから、運転者、歩行者の法を守る精神だけが頼りなのである。極めて不完全なモノだ。
それを忘れないで欲しい。
一昨日も、横断歩道を横断中の学童が轢かれた。
信号がどうだったかということが争われると思うが、あくまでも交通信号は交通整理のためにあるということを忘れないで欲しい。
面白い事実がある。米国では交通信号のことを、Traffic light と言う。
その意味は交通流を管理するためとある。
鉄道の信号はSignalである。
こちらの意味は、運転手に(安心して)前進して良いかどうかを表示するとある。
英語表記の方がその性格を良く表していると思いませんか。










posted by トロント at 11:18| Comment(5) | TrackBack(0) | クルマ社会の常識を疑おう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月04日

防犯と交通安全

最近面白いことに気付いた。
町会では、地元警察からいろいろとお願いが来る。
多くは防犯に関することである。パトロール隊を結成して見回って欲しいとか、犬の散歩のついでにパトロールして欲しいとか言う類いである。
防犯の担当は、地域住民と仲良くしたいという姿勢がよく見える。そして防犯には住民の目が大切だと言う。
町会の防犯部長には始終警察から情報の提供があり、空き巣、変質者、ひったくりに注意して欲しいと言ってくる。
そして、見かけたことのない人がうろついていた、変質者に触られた、息子を語る変な電話が掛かってきたなどと言うことがあったら、すぐ警察に電話して欲しいと、機会がある毎に訴えている。防犯の情報を喜んで受け取るという姿勢がハッキリとみえる。そして、母さん助けて詐欺の犯人を住民と協力して逮捕したりもする。勿論、年末の住民夜間パトロールにも同行する。
つまり、住民の協力なしには防犯は機能しないという考えから、住民の理解と協力を得たいと努力をしているのである。
また、住民も防犯に関する限り警察に対しては町のお巡りさんとして一様に好感を抱いている。
ところがである。
同じ警察でも交通安全に関してはそういうことは一切ない。
例えば、何時も通るあのクルマはスピード違反するから取り締まって欲しいとか、ここでは危険な駐車違反がひどいから取り締まって欲しいとか、そういう情報を欲しがっているということを全く聞いたことがない。
言ってみれば、交通警察に関しては住民に協力して欲しいという姿勢が全く見えないということである。
お座なりに年2回の交通安全運動は行われるが、ただそれだけである。常日頃から、交通安全のために住民の協力を得ようと働きかけてこないのである。
防犯警察の方はしょっちゅう住民とコンタクトしようとするが、交通警察は自分たちの方からコンタクトしてくることは全くない。
その上、いつの間にか知らないうちに信号が付いたり、妙な交通規制があったり、でも、本当に欲しいところに信号は付かないし、交通規制もやって欲しいという住民の意思は通じない。
その差は大きい。住民も交通警察に関しては大概親近感がないと同時に逆に反感を持っている者までいる。交通警察はただ取り締まるためにだけあると理解している住民は多いのではないか。
ここがこの国のクルマシステムの不幸なところである。何故そうなってしまったのであろうか。
ブログ子はもとは道交法にあるとみる。
道交法は運転者に対する法の執行は警察だけにあると規定している。そして規制等は行政から独立した都道府県公安委員会が独占的にその権限を握っているのである。
つまり、住民の協力という考えは端からない。良い証拠に、住民は交通違反者に対し何の法の執行の権限も与えられていないのである。駐車違反だって住民が運転者に文句を言っても聞き流されるだけである。警察のいうこと意外聞くことはないと道交法は規定しているのである。
この警察のスタンスの差はなんとかならぬモノであろうか。
同じ警察でありながら、住民の力を貰いたい防犯警察と自分たちがやることに口を出すなという交通警察。こういうスタンスだから生活道路での歩行者事故が減るわけがない。住民の目を大切にし、もっと住民とコンタクトして住民の協力を得ることが必要ではないかと思うのである。






posted by トロント at 15:10| Comment(3) | TrackBack(0) | クルマ社会の常識を疑おう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月04日

自分の満足、他人の迷惑

何時も気になっていることですが、クルマ社会の常識は標題の一言に尽きます。
自が気に入ったクルマやオートバイを買って満足に浸りきって気分良く乗り回す。それは気分良いでしょう。でも他人にとっては迷惑なことも多々あるのです。
住宅街の狭い道に堂々と乗り入れてくる。歩行者は道の端に身をすくめてやり過ごす。
渋滞でも周囲の住宅を気にせず延々と排気ガスをまき散らす。
駐車違反なのに平気で停める。歩行者が車道にはみ出さねば歩けない。
暑いからと停めてあるクルマの中でエアコンを掛けっぱなしで涼んでいる。
大音響のカーオーディオで自分だけ楽しんでいるが周囲の歩行者には良い迷惑。
深夜帰宅してシャッターを開け閉めする。眠れません。
迷惑の最たるものが、オートバイの排気音。なんであんなに大きな音を立てねばならないのでしょうか。たぶん性能の悪い分音で主張しているのでしょう。
クルマ社会は行きすぎた自由経済の象徴です。弱肉強食。金のある人は何をしても良いという常識がまかり通っています。
クルマを運転することは権利ではありません。多くの他人が譲ってくれているから、他人が税金を払って道路を作ってくれているから運転出来るのです。だから、それを理解して、お互いが迷惑しないようにするべきです。
運転するときは他人に迷惑が掛かっていると考えて、遠慮しながら運転するべきです。申し訳ないと思って運転して下さい。
残念ながら、道路交通法には、どこにもそういう言葉は書かれていません。
そこが問題です。



posted by トロント at 17:39| Comment(1) | TrackBack(0) | クルマ社会の常識を疑おう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする